東海道を歩き通そう、と決めて迎えた最初の一日。スタート地点はもちろん、五街道の起点・日本橋です。

日本橋 ── すべての道の始まり

曇り空の下、午前10時前。相方と二人、日本橋のたもとに立ちました。道路の真ん中に埋め込まれた「日本国道路元標」、そしてかたわらの里程標には、横浜まで二九粁、京都まで五〇三粁、鹿児島まで一四六九粁……と、全国の都市までの距離が刻まれています。ここが本当に、すべての道の始まりなのだと実感する瞬間です。

頭の上を首都高速が覆い、橋はすっかりその影に入ってしまっていますが、それでも欄干の風格は健在。たもとには魚河岸発祥の地の碑も残っていて、かつてここが江戸のにぎわいの中心だったことを伝えています。

道標を前にしたときは、これから始まる長い道のりへのわくわくと、「頑張る!」という気合いと。その両方を胸に、最初の一歩を踏み出しました。

銀座 ── 江戸から近代へ

京橋を過ぎ、銀座へ。この日はちょうど銀座SIXがオープンして間もない日で、真新しい商業施設の前を通りかかると手際の悪い対応に客が詰め寄っている場面に出くわしました。歴史を歩く旅の途中で、いかにも”今日の東京”らしい一コマに立ち会ったのも、なんだかおかしくて記憶に残っています。

銀座にはもうひとつ、足を止めたい場所が。煉瓦銀座之碑とガス灯です。明治のはじめ、大火をきっかけにこの一帯は日本初の煉瓦街として生まれ変わりました。そのことを記念する碑で、隣にはやわらかな炎をともすガス灯が立っています。少し離れた歩道には「銀座の柳二世」の標柱も。かつて銀座を彩った柳並木の、その二代目です。

——とはいえ、正直に打ち明けると、この日は見るもの行くところがいちいち珍しくて、ひとつひとつをじっくり味わう余裕はありませんでした。あとから振り返れば「あそこ、もっと見ておけばよかった」と思うのですが、初日の高揚というのはそういうものなのかもしれません。とにかく前へ、次へ、と歩いていきました。

浜松町〜田町 ── これぞ、東京!

新橋を越え、浜松町から田町へ。運河には屋形船がのんびりと浮かび、ビルの谷間にふと視線を上げると——東京タワー。私にとって東京タワーは「これぞ、東京!」の象徴で、いまだに見えるとついカメラを向けてしまう建物のひとつです。この日も、歩道橋途中に赤い塔が現れた瞬間、しっかり一枚おさめていました。

田町では、ちょっと立ち止まりたい場所があります。「江戸開城 西郷南洲・勝海舟 会見之地」の碑。幕末、官軍が江戸に迫るなか、勝海舟と西郷隆盛がここにあった薩摩藩邸で会談し、江戸の無血開城を決めた——その歴史の舞台です。百万の市民を戦火から守った会談の地が、いまはビルの植え込みの一角に静かに残っています。

高輪・泉岳寺 ── 江戸の関門と、忠臣蔵

田町を過ぎ、高輪へ。ここで目を引くのが、高輪大木戸跡です。江戸時代、東海道を行き来する人や物を管理した「江戸の南の関門」で、いまも道沿いに堂々とした石垣が残っています。おもしろいのは、その石垣のすぐ上に大きなYAMAHAの看板がそびえていること。江戸の遺構と現代の風景が一枚におさまる、なんとも東京らしい眺めです。木戸を抜ければ、いよいよ旅人は江戸の外。私たちも、関所を通る気分で先へ進みます。

さて、泉岳寺の近くまで来たら、ここはやはり外せません。「通るなら寄っていこう」と相方にリクエストして、参道へ。

泉岳寺といえば、忠臣蔵。赤穂浪士・四十七士が眠るお寺です。祝日だったこともあってか、混み合うほどではないものの、見物客は途切れることなく訪れていました。山門をくぐると、討ち入りを率いた大石内蔵助良雄の銅像が迎えてくれます。一巻の連判状を手にした姿は、いかにも頼もしい。奥には浅野長矩公の墓、そして「血染めの梅・血染めの石」——主君が切腹した際、その血がかかったと伝わる梅と石も残されています。

実は、私の母方の先祖は播州の出と聞いています。赤穂義士とのつながりがあるわけではないのですが、同じ播州というだけで、なんだか勝手に親近感がわいてしまいました。

品川駅前〜昼食 ──

高輪を下って、品川駅前へ。京急線の赤い電車が間近を走り抜け、Wing高輪の建つ交差点は車と人でにぎやか。歴史の道を歩いてきた身には、急に「現代」に引き戻されるような喧騒です。

この辺りは電車が間近で見られることもあって大きい鉄ちゃんから小さい鉄ちゃん迄電車を眺めたり写真に収めてる人が見られました。

ちょうどお腹も空いてきたころ、道沿いに「ローストビーフ」の看板が目に入りました。先はまだ長い。ここはひとつ力をつけておこうと、相方と二人で迷わず入店。たっぷりのローストビーフ丼は食べごたえも十分で、おいしくいただきました。旅の途中のこういう一食は、何より大切な燃料です。

品川宿 ── 最初の宿場、その熱量

腹ごしらえを終え、いよいよ品川宿へ。「品川宿」と染め抜かれた赤い幟が、商店街の通りにずらりとはためいています。これがなかなか気合いが入っていて、東海道の最初の宿場としての誇りが伝わってくる。北品川本通りには品川宿本陣跡の石柱も立ち、かつて大名や旅人が休んだ宿場の記憶を今に伝えています。

品川宿を抜けると、利田神社という小さなお社があります。その境内で出会ったのが「鯨塚」。寛政十年、品川の沖に迷い込んだ大きな鯨を供養した塚で、私もこのとき初めてその存在を知りました。

考えてみれば、品川はもともと海に面した漁師町。海苔の養殖漁でにぎわった土地です。けれど高いビルに囲まれているので、ここが海の近くかなんて分からなくなってしまう。鯨塚は、その忘れていた記憶をふと呼び戻してくれました。

——あとから旅を振り返って思うのは、ここ品川宿の”熱量”のことです。東海道を歩き通すと、街道に対する地域の向き合い方が、温度差があることに気づきます。歴史を誇りに、幟を立て、案内板を整え、熱心に発信している地域もあれば、かつての街道がただの生活道路として、地元の人達だけが知る道として淡々と使われている地域もある。その落差は、思いのほか大きかったです。品川宿の堂々とした姿は、これから何百キロも続くその”温度差”の、いちばん最初のサンプルだったのだなと、今になって思います。

涙橋から鈴ヶ森へ ──

街道をさらに南へ。浜川橋——別名「涙橋」を渡ります。江戸時代、この先の鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、親族がひそかに見送った場所。橋の上で涙ながらに別れたことから、その名がついたといいます。

そして、この日の終着点・鈴ヶ森刑場跡。火炙台や題目供養塔が、住宅やマンションに囲まれた一角に、ひっそりと残されています。八百屋お七をはじめ、数多くの人がここで命を絶たれました。

不思議なもので、都内、都心になるとぎりぎりの場所まで人の生活であふれているのに、こうした場所には、それ以上の住まいを拒むような空気が漂っています。そしてその空気ゆえにか、まわりの営みがあまり変わらないまま受け継がれていく。人と、人ならざるものとの境目。生と死の境目。そういうものが、ふと垣間見える土地なのだと感じました。

おわりに

日本橋という「すべての道の起点」から歩き出し、江戸の関門・高輪大木戸を抜け、最初の宿場・品川宿で旅人らしくなり、最後は旅人を見送る涙橋と刑場跡へ。出発と別れが対になった、東海道の最初の一日でした。

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