3年ぶりの再開、そして「金谷はどこへ?」
前回の第八歩、岡部から金谷まで歩いたのが2019年4月。それから3年、東海道歩きはずっとお休みしていました。理由はもちろんコロナです。
ホテルが取れないわけではないけれど、県外の人が来るのは地元の方も嫌だろうし、地域によっては予約自体を受け付けていないところもありました。実際に自分も感染してけっこうきつかったので、「落ち着くまでは無理」と判断して、しばらく様子見。そして2022年のゴールデンウィーク、ようやく「行ける」と決まったときは、本当に嬉しかったです。
さて、ここで鋭い読者の方はお気づきかもしれません。前回のゴールは金谷。今回のスタートは浜松。……その間の金谷~浜松、約40kmはどうしたの?
飛ばしましたw
ルートを決めるとき、相方が「もう電車でも回ったから良いんじゃね?」。私も「まあ、良いかな」。二人して何にも考えてなかった、というのが正直なところです。というわけで、東海道歩きは浜松から再開となりました。

高塚駅から歩き始める
新幹線で浜松へ、そこから在来線に乗り換えてJR高塚駅へ。まだ人出も控えめで、電車はゆったり座れました。感無量……とまではいかなくても、久しぶりに遠くへ行けることにワクワクしていました。
今回、前回までと違うのは準備です。おやつやエネルギーチャージのドリンクを計画的に揃えて出発。3年の間に、歩き旅の心得は少し進歩したようです。

高塚駅を出ると、すぐに旧東海道の史跡が現れます。篠原の立場跡は、慶長6年(1601年)に設けられた休憩所で、明治元年には明治天皇が御小休されたという由緒ある場所。茶屋「浅田屋」の格子窓が今も残っています。

少し進むと坪井村の高札場跡。住宅の間にちょこんと残る小さな祠で、この辺りの「札木」という地名は高札場に由来するのだそうです。

狛犬ならぬ狛鹿――春日神社
休憩がてら立ち寄った春日神社で、珍しいものを見つけました。参道の両脇に立っているのは狛犬ではなく、鹿。石灯籠にも鹿が彫られています。奈良の春日大社とご縁の深い神社とのことで、なるほど鹿なのですね。狛犬ならぬ狛鹿、初めて見ました。

これぞ東海道――舞阪の松並木
馬郡を過ぎると、旧東海道の松並木が現れます。久しぶりに見る松並木に「これぞ東海道!」と気分が上がります。エネルギーチャージゼリーを飲みながら、元気に歩みを進めました。

松並木の入口には、太鼓を叩く「浪小僧」の石像。遠州の民話に登場する海の妖精で、海が荒れる前に太鼓を鳴らして知らせてくれるのだそうです。

舞坂宿と脇本陣
松並木を抜けると、江戸から数えて30番目の宿場、舞坂宿に入ります。見付石垣(宝永6年の古地図にすでに描かれているという古いもの)、一里塚跡、常夜燈と、宿場の入口らしい史跡が続きます。

舞坂宿の脇本陣は、東海道で唯一現存する脇本陣の建物として公開されています。見られる建物があればとりあえず中に入ってみる――これもこの旅の醍醐味ですw
上段の間には金襴の座布団と脇息、竹の結界。中庭には白砂利に飛び石。そして「上湯殿」――大名専用のお風呂桶は、黒漆に内側が朱塗りという豪華なものでした。


とはいえ、こうした建物は旅の途中で幾度となく見ているので、「まあ、こんなもんか」と一通り眺めたら、次第に空が広く見えてくる方へ足を進めます。
空が広くなる方へ――舞阪漁港と浜名湖
宿場を抜けると、そこは舞阪漁港。晴れていて、海が近いと街全体が明るいような気がします。北雁木の石畳の船着き場に、木造の常夜燈。漁船の向こうには浜名湖、そして遠くに赤い鳥居が小さく見えました。


浜名湖へ向かう途中には魚介のお土産屋さんがあったので、しらすを買って自宅へ宅配予約しておきましたw 歩き旅では荷物を増やせないので、宅配は強い味方です。
浜名湖を渡る
弁天島へ渡る橋の上から見た今切口は、エメラルド色。天気が良くて風も気持ちよく、初めての浜名湖をこの目で見ることができて良かったです。爽やかな風景でした。

赤い欄干の橋の向こうを新幹線が走り抜けていきます。新幹線の車窓から何度も見てきた浜名湖を、今度は歩いて渡っているのが不思議な感じでした。

お昼は「浜名湖はませい」
お昼ご飯はどうしようかと思いつつ歩いていると、目に入った大きい定食屋さん「浜名湖はませい」へ。まだコロナからの回復途上で店員さんの数が少なく、けっこう待たされてしまいましたが、これは仕方ないですね。
名物のうなぎは、コロナのおかげか品切れw 刺身御膳をいただきました。甘えびにまぐろに白身、茶碗蒸し付き。

ただ、ここで食べたのは正解でした。この先、新居から白須賀、二川まで、お店がほとんどなかったからです。浜名湖を渡ったら、弁天島~新居あたりで昼食を済ませておくことを強くおすすめします。
新居関所――実は全国唯一だった
新居町駅の前を通って、新居関所へ。広い砂利の敷地に大御門、船着き場の再現、そして面番所には関所役人の等身大人形が並び、鉄砲や突棒・袖搦・刺股といった武具も展示されています。



歩いていたときの私の感想は「広いなー」「人形まで置いて気合入ってるなー」でした。
……が、この記事を書くにあたって調べて分かったのですが、新居関所は江戸時代の関所の建物が現存している、全国で唯一の場所なのだそうです(箱根の関所は復元)。道理で気合が入っているわけです。ちゃんと説明を読みなさい、と過去の自分に言いたいですw
新居宿から潮見坂へ
関所を過ぎると新居宿。飯田武兵衛本陣跡、疋田八郎兵衛本陣跡と、本陣跡の碑が続きます。疋田本陣は建坪190坪で、徳川御三家や吉田藩など約120家が利用したと案内板にありました。

明治天皇御野立所址は、明治元年(1868年)、東京へ向かう明治天皇が豊橋から新居へ向かう途中で休憩された場所。この日の朝に通った篠原の立場跡でも明治天皇が休まれていましたから、今日は一日、明治天皇と同じ道を歩いていたことになります。
そして。ここから、この日最大の難所、潮見坂の登りです。

潮見坂――目の高さにある海
潮見坂は、きつい登りでした。
古い家並みの間を抜けて、じわじわと登っていく坂道。でも振り返ると、遠州灘の海が遠くまで見えます。不思議だったのは、坂の下に海があるはずなのに、途中までは海が目の高さと同じくらいにあるように見えたこと。……疲れてたのかなw

潮見坂は汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文に登場する場所。西国から江戸へ向かう旅人にとっては、ここが初めて太平洋の大海原と富士山を望める場所だったそうです。永享4年(1432年)には室町幕府6代将軍・足利義教が富士見物の帰りにここで休息し、歌会を開いたとか。歌川広重の「東海道五十三次 白須賀」も、この潮見坂から遠州灘を見下ろす構図で描かれています。
……というのは、坂の上の説明板に書いてあったことですが、その場では読んでいませんw 白須賀宿の休憩施設には寄ったものの、体力回復のためのおやつを食べるので精一杯。久しぶりの長距離は、やはりきつかったです。


ついに静岡県脱出
白須賀宿を過ぎ、加宿の境宿を過ぎて、道はやがて「愛知県 豊橋市」の標識へ。
長かった。本当に長かった。
第六歩の吉原から数えて、静岡県内だけで4回分。3年の中断を挟んで、ようやく県境を越えました。

二川宿へ
県境から二川宿までは、あと少し。二川宿は慶長6年(1601年)設置、東海道53次の33番目の宿場で、本陣や旅籠「清明屋」、商家「駒屋」などが江戸時代の宿場町の景観を今に伝えています。

……なのですが、二川宿本陣資料館に着いたときには、残念ながら閉館後。看板だけ写真に収めて、二川駅へ向かいました。


新所原のスーパー惣菜ディナー
この日の宿は、二川駅周辺に見つからず、電車で新所原駅近くのビジネスホテルへ。ついでに言うと食べるところもほとんどなく、唯一開いていたお寿司屋さんは一見さんお断りの気配(空いてたけど、新規のお客を受け付ける様子なしw これもコロナのせい?)。
近くにスーパーがあったので、お惣菜を買ってホテルで食べました。これがまた、お米が美味しくなかった……。コメだけはケチらないでほしい。
前回の焼津といい、宿場町に泊まれない・食べられない問題は、現代の東海道歩きの宿命のようです。

そして、この日の歩数は49,475歩。第八歩の45,525歩を超えて、この旅の新記録です。よく歩いた!疲れた!
3年ぶりの一日を振り返って
コロナの影響はなくなりつつあっても、まだまだ――そんな一日でした。お店の人手不足、閉まっている店、受け付けてもらえない店。旅は人混みを通るわけではないのでマスクはしつつも心配はしていませんでしたが、街の側はまだ回復の途中なのだと感じました。
それでも、晴れた空の下で初めての浜名湖を渡り、潮見坂の上から遠州灘を見て、静岡県を歩き切った一日。準備したおやつとエネルギーチャージのおかげか、久しぶりの長距離を最後まで歩き通せました。
金谷~浜松の空白は、いつか埋める日が来るのでしょうか。……たぶん来ないと思いますw
きょうも、てくてく。
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