始発のこだま、まさかの大混乱

2023年のゴールデンウィーク。今年も東海道の続きを歩きに、始発のこだまで西へ向かいます。

ところが、ここでいきなりつまずきました。座席の予約を、すっかり忘れていたのです。

去年はそんなことをしなくても余裕で座れました。でも今年は、コロナ禍あけの本格的なGW復活の年。自由席のホームは大混乱で、順番もへったくれもあったものではありません。なんとか無事に座れましたが、歩く前からひと仕事終えた気分でした。

そんな私たちをねぎらうように、車窓には富士山がくっきり。これだけで少し報われます。

岡崎公園前駅からスタート

前回は岡崎城でゴールしました。今回は東海道にいちばん近い、名鉄の岡崎公園前駅から歩き始めます。時刻は朝9時前。

二十七曲りと八丁味噌、そして我が家あるある

岡崎の城下町は「二十七曲り」で知られています。城下を通る東海道を、わざと何度も折れ曲がらせた道筋です。外敵が城に近づきにくくするためとも、城下に人を長く滞在させるためとも言われています。いまは角ごとに道しるべが立っていて、迷わずにたどれます。

「東海道岡崎城下二十七曲り」の道しるべ。これを頼りに進みます

そして岡崎といえば八丁味噌。岡崎城から西へ八丁(約870メートル)離れた八丁村で造られたことが名前の由来です。蔵の並ぶ通りは、黒い板壁と白い漆喰が続いて風情があります。

八丁味噌の蔵元。重厚な門構えです

ただし、朝早いうえに祝日。お店は開いていません。

これは我が家あるあるです。タイミングが合えば味噌を買って帰りたかったのですが、私たちは歩くのが目的なので仕方ありません。仕方ないのですが、こういうときはやっぱりなんだか残念な気がします。

矢作橋。川は川でした

蔵の通りを抜けると矢作橋です。味噌のお店があるあたりより少し高いところに橋が架かっていたように記憶しています。

矢作橋から見た矢作川。空が広い

矢作川を渡った感想は、正直に言うと「川は川」でした。

あとから知ったのですが、橋のたもとには日吉丸(のちの豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いを伝える「出合之像」があるそうです。まったく覚えていません。下調べをしない歩き旅の、これもあるあるです。

安城から知立へ。広い道と松並木

矢作橋を渡ると、やがて安城市に入ります。

このあたりの道は整備されていて、広くてゆったりした印象でした。それでいて、ところどころに松並木がきちんと残されています。新しい道と昔の面影と、メリハリがあって歩いていて気持ちのいい区間です。

歩道に沿って続く東海道の松並木

途中、道ばたに大福の自動販売機を見つけました。お店は開いていなくても、自販機は裏切りません。

知立市に入ると来迎寺一里塚があります。一里塚は、見かけたら必ず撮ってしまいます。東海道らしいと思って。

来迎寺一里塚。塚の上に松が一本、すっと立っています

5月とはいえ、毎年のことながら暑いです。日焼け止めと帽子は必須。これから歩く方は、どうぞお忘れなく。

池鯉鮒宿。馬市の町で、山車に出会う

知立は、東海道三十九番目の宿場「池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)」があったところです。宿場の手前には、いまも立派な松並木が残っています。

池鯉鮒は馬市で知られた町でした。歌川広重も「東海道五十三次」でこの馬市を描いています。案内板によると、馬市は毎年4月から5月のはじめごろに開かれ、集まる馬は四、五百頭にもなったそうです。ちょうど私たちが歩いているのと同じ季節です。

広重「池鯉鮒 首夏馬市」の案内板

そして町なかに入ると、どこからかお囃子が聞こえてきました。

角を曲がると、屋根に色とりどりの花飾りをのせた山車が、ゆっくりと進んでいます。山車の中では子どもたちがお囃子を演奏していて、それを法被姿の大人たちが引っ張っていました。

偶然出会った知立まつりの山車。屋根の花飾りが青空に映えます

もちろん、まったくの偶然の通りがかりです。毎年5月2日・3日は知立神社の「知立まつり」。山車文楽とからくりが上演される「本祭」と、花で飾った山車が出る「間祭(あいまつり)」が一年おきに行われ、この年は間祭にあたっていました。

こういったお神輿や山車は、地域の色がはっきり分かれます。眺めているだけでも楽しいものです。

知立駅前のラーメンと、言葉の変わり目

知立駅のあたりでお昼にします。

ここでも祝日の壁が立ちはだかり、開いているお店は多くありません。とりあえず入ったラーメン屋さんで、ラーメンと餃子をいただきました。相方も似たようなものを食べていたと思います。たぶん。

澄んだスープの醤油ラーメン。歩いたあとの塩気が沁みます

このお店で「あっ」と思ったことがあります。聞こえてくる言葉の響きが、関西寄りに変わっていたのです。

東京はもちろん標準語です。静岡あたりもきっと違いはあったのでしょうが、私の耳にはあまり違和感がありませんでした。それが知立で、ふっと変わった。方言の分かれ目を自分の耳で感じたようで、とても興味深かったです。

少しずつ歩いて移動しているからこそ気づけたことだと思います。新幹線で通り過ぎていたら、きっとわかりませんでした。

松とツバメと、育った町に似た風景

お昼を食べたあとは元気です。途中の駅前でトイレ休憩をとりました。ロータリーには、枝ぶりのいい松が一本。

軒先にはツバメの巣がありました。ツバメの巣も、見かけるたびに写真を撮ってしまいます。

このあたりから、風景がこれまでとずいぶん変わってきました。大きな鉄塔が何本も並び、広い敷地に車がずらり。工業地帯が近いのでしょう。

鉄塔が連なる風景。これまでの東海道とは違う表情です

その土地の背景や事情が、ひとつでは終わらない風景をつくっている。そういうところも歩き旅のおもしろさです。それに、工業地帯の煙突を見ていると、私の育った町の風景になんとなく似ていて、ちょっと懐かしくなりました。

豊明市に入ると、阿野一里塚があります。道の両側に塚が残る、国指定の史跡です。もちろん撮りました。

突如あらわれた桶狭間古戦場

前後駅を過ぎてしばらく歩くと、石柱が立っていました。

「史蹟 桶狭間古戦場」

私はここを通ると認識していませんでした。相方は知っていたようですが。

永禄3年(1560年)5月19日、駿河・遠江・三河を治めていた今川義元が、織田信長の急襲を受けて討たれた場所です。教科書で習った、あの桶狭間です。

行ったことはないのですが、古戦場といえば関ヶ原のような、もっとだだっ広いところを想像していました。ところが目の前にあるのは、木々に囲まれた公園のような場所です。

え、こんな狭いところで戦ったの?

頭の中はかなり混乱しました。いや、きっと昔は広かったのですよね。うん。きっとそうだ。

実際、戦いはこの一帯の丘陵地に広がっていたとされていて、いまは住宅地になったところも含めての「桶狭間」なのだそうです。

園内には、義元が戦死した場所を示す「七石表(しちこくひょう)」の一号碑があります。明和8年(1771年)に建てられたもので、いちばん古い碑だそうです。

七石表の前で。髭切と膝丸も神妙な面持ちです

今川義元の墓。明治9年(1876年)に建てられました

ちなみに、このとき義元が持っていた刀が、のちに信長の手に渡った「義元左文字」だそうです。これはあとから教えてもらって知りました。

ゆっくりはできませんでしたが、古戦場跡をこの目で見ることができてよかったです。

有松。絞りの町をそっと通り抜ける

桶狭間を過ぎると有松です。

有松は、江戸時代のはじめに池鯉鮒宿と鳴海宿のあいだに開かれた町で、「有松絞り」で栄えました。東海道を行き来する旅人が、手ぬぐいや浴衣をおみやげに買っていったそうです。

絞り染めの暖簾に「ありまつ」の文字

通りには、瓦屋根に格子戸の商家がずらりと並んでいます。季節柄、絞り染めの鯉のぼりも泳いでいました。

着いたのは夕方近く。閉まりかけのお店が多く、「絞り染め、欲しいな」と思いながらも、町のゆったりした雰囲気だけ味わって通り抜けました。

朝は早すぎて味噌が買えず、夕方は遅すぎて絞りが買えず。我が家あるある、一日に二回目です。

最後はちょっと大変でした

実はこのあと、私の体調が思わしくなくなりました。あまり記憶がないのですが、鳴海あたりの駅から電車に乗って、名古屋市内の宿へ向かっています。

原因は、リュックを支えるベルトの締めすぎだったようです。長く歩く方は、どうぞお気をつけください。締めればいいというものではありませんでした。

ホテルで休んだら、なんとか回復。その後はしっかりと焼肉を食べに行きました。

炭火でじゅうじゅう。よく歩いた日のごほうびですw

最後はちょっと大変でしたが、城下町、松並木、お祭り、工業地帯、古戦場、絞りの町と、一日でいろんな景色を見ることができました。

ここにきて、宿と歩く区間の距離感がうまくつかめなくなってきています。そのお話は、また次回に。

きょうも、てくてく。


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