• 東海道歩き、第三歩。前回は保土ヶ谷宿から藤沢宿まで歩きましたので、今回はその続き、藤沢宿を出発して、いよいよ大磯宿を目指します。

    時はゴールデンウィーク。新緑がまぶしく、歩くにはもってこいの季節です。前回ゴールした藤沢に、ふたたび戻ってくるところから一日が始まりました。わくわくした気持ちはあの日の続きのまま、「さあ、今日も頑張って歩くぞ」と、軽やかに一歩目を踏み出します。

    今日のスタートは藤沢宿。広重の絵に見送られて、いざ出発。

    藤沢宿のあたりには、江の島弁財天への道標や、遊行寺橋、蒔田本陣跡、問屋場跡など、宿場の名残がぽつりぽつりと残っています。問屋場跡にいたっては、今は消防出張所。かつて人馬の継ぎ立てでにぎわった場所に消防車が並んでいるのを見ると、時の流れというのはおもしろいものだなあと、しみじみしてしまいます。

    茅ヶ崎、海へ

    藤沢から街道をどんどん西へ。茅ヶ崎に入ると、メルシャンのワイン工場や、本村のタブノキの巨木など、思いがけない見どころが次々あらわれます。

    そして茅ヶ崎駅を過ぎ、雄三通り(あの加山雄三さんにちなんだ名前だそうです)を抜けて海のほうへ向かうと――ぱあっと視界がひらけて、相模湾です。砂浜の向こうには、江の島の姿も。日差しはもうすっかり初夏で、「いやー、暑いなあ」とこぼしながらも、街道歩きで海に出る瞬間は、やっぱり格別ですね。

    海に出た! 砂浜の向こうに江の島。

    さて、お目当てはこちら。テレビや雑誌では何度も見たことのある、あの「茅ヶ崎サザンC」のモニュメントです。実物を前にすると、ミーハーな私はちょっとそわそわ。「これこれ、これが見たかったの!」と、しっかり記念に一枚おさめてきました。

    本物の「茅ヶ崎サザンC」! テレビで見たやつだ、と若干興奮。

    お昼は、やっぱり肉

    たっぷり歩いてお腹もぺこぺこ。お昼に選んだのは、しゃぶしゃぶの食べ放題のお店でした。

    我が家の昼ごはん選びは、もっぱら相方の担当。そして我が家の街道歩きは、力をつけるならやっぱりお肉、というのが揺るがぬ方針です。本音を言えば、どーんと塊肉にかぶりつきたいところなのですが、そこはお財布と相談。それでも「肉を食べないと、午後の足が動かない」というのが歩き旅の実感でして、霜降りのお肉を何種類ものつけだれでいただいて、しっかり燃料を補給しました。

    前回はハンバーグ、前々回はローストビーフ丼……と、振り返ればなかなかの肉率。我ながら、よく食べ、よく歩くものです。

    本日の燃料補給。やっぱり、肉。食べ放題でしっかりと。

    相模川を渡る前に── 鎌倉時代の橋が、地面から

    お腹を満たして、午後の道へ。茅ヶ崎から平塚へ向かうには、大きな相模川(馬入川)を渡ります。今回いちばん心に残った場所があります。**旧相模川橋脚**です。

    第一印象は、正直に言って「……なんだ、これ?」。なんでもないような池に、木の杭のようなものがぽつぽつと頭を出しているだけ。ところが、かたわらの看板を読んで、びっくり仰天しました。

    この橋脚、なんと鎌倉時代のもの。源頼朝の家臣・稲毛重成が、亡き妻の供養のために相模川に架けた橋の脚だというのです。八百年も昔の橋が、よくぞ大正の世まで埋もれて残っていたものだなあと、それだけでも驚きでした。

    ではなぜ、それが今ここで見られるのか。きっかけは、大正十二年の関東大震災。地震による液状化現象で、地中に眠っていた橋脚が、にゅっと地表に姿をあらわしたのだそうです。

    ちなみに、いま池に頭を出して見えているのは、実は模型(レプリカ)。本物の橋脚は、傷まないよう、この模型の真下にていねいに保存されているのだそうです。なるほど、見せながら守る、という工夫なのですね。

    池に頭を出すのは模型。本物はこの真下に眠っています。「なんだこれ?」が、看板を読んで一変。

    八百年の歴史をぎゅっと伝える解説板。

    そして何より胸を打たれたのは、これを見つけた当時の人々が、ただ埋め戻してしまわずに、きちんと史跡として残してくれたこと。しかも本物は土の中で守りながら、上には模型を置いて、訪れた人にその姿を伝えてくれている。「これは大切なものだ」と気づいて守りぬいた、その見識のすごさ。八百年前の供養の橋を、今こうして自分の足で見に来られることに、ただただ感謝です。残してくれて、ありがとうございます。

    現在の橋。電車も車も人もしっかり支えて歩くことができます。

    平塚宿を抜けて

    橋脚に感動したあとは、平塚宿の中へ。ここは東海道五十三次の宿場のひとつで、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡、問屋場跡……と、宿場を構成する史跡がきれいに残されていました。

    標柱や案内板を一つひとつ追いかけていくと、かつてここに大名行列が泊まり、人馬が行き交っていた様子が、なんとなく頭に浮かんできます。今はすっかり普通の街並みですが、足元にはちゃんと歴史が積み重なっているのですね。

    とはいえ、このあたりはもう、おしゃべりもめっきり減って、ただ黙々と歩く時間。移りゆく景色をぼんやり眺めながら、一歩一歩を重ねていきます。歩き旅というのは、こういう淡々とした時間こそが、案外いちばん長いのかもしれません。

    平塚宿本陣旧跡。今は街角に静かに立つ標柱。

    あの珍しい形の山、大磯へ

    平塚を過ぎると、行く手に、こんもりとした美しい山が見えてきます。お椀をふせたような、なだらかで品のある姿。「なんだか珍しい形の山だなあ」と、歩きながら眺めていました。

    ……と、当時はのんきに見ていたのですが、実はこれ、**高麗山(こまやま)**という、れっきとした名所。広重の浮世絵にも描かれた、この街道きっての名物の眺めなのだそうです。知らずに「珍しい形だな」などと眺めていたとは、我ながらお恥ずかしい。でもまあ、名前を知らなくても「いい山だな」と感じる目はあったということで、よしとしましょう(笑)

    道沿いには高来神社(たかくじんじゃ)の鳥居も立っていて、いよいよ大磯町に入ってきたんだなと実感します。「大磯町」の道路標識を見たときは、ゴールが近づいてきた嬉しさで、疲れた足にもまた力が入りました。

    高来神社の鳥居の向こうに、高麗山。あとから名所と知りました。

    大磯 ── 聖ステパノ教会と、澤田美喜さん

    大磯駅にたどり着いたあと、心に残る場所に立ち寄りました。**エリザベス・サンダース・ホーム**ゆかりの一帯です。

    ここは、地図を見ながら歩いていた相方が「この道沿いにあるよ」と教えてくれて、寄り道することにした場所。澤田美喜(さわだ みき)さんのことは、以前テレビで見て知っていました。戦後、行き場のなかった子どもたちを引き取り、育て上げた方です。その功績は、本当にすごいの一言に尽きます。

    ふと、ずっと前に見たテレビ番組のことを思い出しました。澤田さんの遺影を前に、「お母さん」と慕いながら、涙を流してインタビューに答えていた、当時育てられた男性の姿。あの涙が、彼女がどれほど深い愛情を注いだ人だったかを、何より物語っていたように思います。その場所に、こうして自分の足で立っていることが、なんだか不思議で、ありがたく感じられました。

    敷地のそばには、三角屋根のすっと高い**聖ステパノ教会**。緑と花に囲まれて、静かで凛とした佇まいでした。

    すっと天をさす、三角屋根の聖ステパノ教会。

    教会のまわりには、石を積んだ階段に立てられた、26本の十字架もありました。これは1597年に長崎で殉教した26聖人を表しているのだそうです。隠れキリシタンの歴史にも通じる、祈りの場でした。

    石段に立つ、26本の十字架。

    夕暮れの松並木、そしてゴール

    大磯宿には、ほかにも見どころがたくさん。同志社を創った教育者・新島襄が、この地の旅館で生涯を閉じたという「新島襄終焉の地」の碑や、「湘南発祥之地 大磯」の堂々たる石碑など、立ち止まるたびに新しい発見がありました。

    それから、夕暮れの松並木。傾いた日の光が、松の木立の間からやわらかく差し込んで、なんとも言えず美しい道でした。一日歩きとおした体に、この夕方の光景はごほうびのよう。前を行く相方の後ろ姿も、どこか満ち足りて見えます。

    夕暮れの松並木を歩く

    さて、このあたりでいよいよ足が限界。「もう無理……」というところで、とりあえず飛び込んだのが、道沿いのラーメン屋さんでした。半熟卵にメンマ、海苔ののった一杯と、こんがり焼けた餃子。歩き疲れた体に、このしょっぱくて温かい一杯がしみわたります。「今日もよく歩いたね」と、餃子をつまみながらの、ささやかな打ち上げでした。

    この日の宿は、大磯プリンスホテル。道中には井上蒲鉾店というかまぼこ屋さんがあり、無添加のちょっとお高いかまぼこを買って、宿でいただきました。食べてみると、なかなかの塩気。「無添加って、こういうものなのかなあ」なんて思いつつ、ビールのおともにぺろり。歩いたあとは、なんでもおいしく感じてしまうから不思議です。

    おわりに

    藤沢宿を出発し、茅ヶ崎の海で潮風を浴び、相模川を渡り、鎌倉時代の橋脚に驚き、平塚宿を抜けて、高麗山を望みながら大磯へ。澤田美喜さんの足跡に触れ、夕暮れの松並木を歩いて、一日が暮れていきました。

    見どころの多い、盛りだくさんの一日。歩けば歩くほど、この街道に積み重なった時間の厚みを感じます。

    次は大磯宿から、箱根の峠を目指して。

  • 東海道歩き、第二回。前回は日本橋から鈴ヶ森まで歩きましたが、今回は少し事情があって、スタート地点が飛んでいます。

    というのも――この先の街道沿いには、相方の実家があるのです。箱根駅伝のコースにもなっている、あの道沿い。「自分の実家の前を、わざわざ歩いて通るのはどうも気恥ずかしい」。そんな相方のたっての希望(?)により、その区間はまるごとスキップ。私たちは横浜の保土ヶ谷宿、相鉄線の天王町駅から、しれっと歩き始めることにしたのでした。

    空は快晴とまではいきませんが、歩くにはちょうどいい、穏やかな天気。気負わず――と言いたいところですが、歩き出しはやっぱり気合い十分。今日もわくわくしながら、二歩目を踏み出しました。

    保土ヶ谷宿 ── 静かなスタート

    時間が早いのか、連休中でもっと遠くへ行ってる人も多いのか私たちのほかに街道を歩いている人の姿は見かけません。観光地のにぎわいとは無縁の、静かなスタートです。

    天王町から保土ヶ谷宿の中を進んでいくと、旧東海道の史跡を伝える案内板が要所に立っていて、歴史を少しだけ垣間見ることができます。さらに歩くと、五月の空に鯉のぼりが泳ぎ、その下には堂々とした常夜灯。そこから続く道は、どこか昔の街道の名残をとどめていて、「ああ、東海道を歩いているんだな」としみじみ感じる一角でした。

    権太坂 ── この日の正念場、そして富士山

    さて、保土ヶ谷宿を抜けると、いよいよこの日の正念場――権太坂です。東海道きっての難所として知られる坂で、道ばたには「権太坂」と刻まれた石標が立っています。

    初めて挑む長い登り坂は、正直なところ、なかなかこたえました。じわじわと続く勾配に息も上がります。……とはいえ、これはあくまでこの時点での話。後にあの箱根の峠を越えることになる私たちからすれば、今思えば「どうってことのない坂」だったのですが、そのときはまだ知る由もありません。目の前の坂を、一歩ずつ登っていきました。

    そして登りきった先で、ふと遠くに目をやると――富士山。思いがけず姿を見せてくれた霊峰に、疲れも忘れて気持ちが晴れました。坂を越えたご褒美のような眺めです。

    武相国境(境木)── 「ああ、そうなんだ」

    坂を登りきったところが、武蔵国と相模国の境目「境木(さかいぎ)」。地面には武相国境を示す立派な地図プレートが埋め込まれていて、「京都百十七里」などと刻まれています。

    ただ正直に言うと、このモニュメントを見ても「ああ、そうなのね」という程度で、いまひとつ実感はわきませんでした。それよりも、道路にふつうに立っている地名の標識のほうが、「本当に県境に入ったんだ」と実感がわきます。現在の地名のほうがわかりやすいですし。

    黙々と歩く ── 生活の道を行く

    しばらく黙々と歩く区間が続きます。

    街道はゆるやかに坂を下り、住宅地のなかへ。ふと足元を見ると、坂道だけ円い滑り止め模様のついた舗装になっていたり、塀には選挙ポスターが貼ってあったり、道ばたにはパン工場の大きな看板。名所旧跡というわけではない、ごくふつうの郊外の景色ですが、こういう「生活の道」をただ歩く時間も、街道歩きの地味な楽しみです。

    途中、「旧東海道 不動坂」と書かれた案内柱が立っていました。地図には「現在地」の文字。保土ヶ谷宿と戸塚宿のちょうど中間あたり、まだ道のりは半ばです。

    お昼ごはん ── 力をつけるには、やっぱり肉

    そろそろお腹も空いてきました。通り沿いを歩いていると、ちょうどよく食事処を発見。迷わず入ります。

    メニュー選びの方針は、予算と客入り具合(比較的すぐ入れそうなとこ)。そして力をつけるには、やっぱり肉。鉄板の上でジュージューと音を立てるハンバーグを前に、午前中の権太坂で使った体力をしっかり充電しました。歩いた後の肉は、理屈ぬきにおいしい。

    戸塚宿 ── 相方の、懐かしい道

    さて、お腹も満たされたところで、いよいよ戸塚宿へ。宿場の出入口にあたる「見付」の案内板が、旧東海道らしさをそっと教えてくれます。(昼食は後ろに映ってる店で食べました)

    戸塚宿は、JRの線路が街道を横切る場所。線路ぎわには史跡の案内板や踏切をかたどったモニュメントが立ち、ちょうど電車が通り過ぎていきました。

    相方は、生まれも育ちも都内。この戸塚のあたりにも馴染みがあるようで、線路や町並みを懐かしそうに眺めていました。何やらぽつぽつ語っていたのですが……正直、ずいぶん前のことなので、何を言っていたかはもう忘れてしまいました。まあ、そういうのも旅の記録ということで。

    澤邊本陣跡 ── “かつて”を歩く

    戸塚宿の中ほどに、「澤邊本陣跡」と刻まれた石柱が立っています。本陣とは、参勤交代の大名や公家など、身分の高い人だけが泊まれた格式高い宿。戸塚宿の中心だった場所です。で、おそらく京都から東京へ移動した明治天皇の休憩場所の石碑が合わせて立っていたりしてます。

    とはいえ、ここにももう建物は残っていません。石柱と説明板が立つだけで、まわりはふつうの住宅が並んでいます。

    ——思えば、この旅で訪ねる先々が、たいていこうでした。「ここにかつて○○があった」。その”かつて”を示す石柱や案内板だけがぽつんと立ち、当時の建物そのものは、もうない。歴史は地面に刻まれているけれど、目には見えない。思いを馳せながら当時の旅人になった気分で歩くこともありました。

    大坂松並木 ── 撮りそびれた松

    戸塚宿を出ると、道は「大坂」と呼ばれる坂にさしかかります。その名も「大坂松並木」。かつては松並木が美しかった坂道です。

    ……と、えらそうに書いていますが、実はこのとき私が撮っていたのは標柱と案内板ばかり。肝心の松並木は、あとで他の方のサイトを見て「あ、ちゃんと松、あったんだ」と気づいた始末です。この頃の私ときたら、相方に言われるがまま、宿場や案内板の写真ばかり律儀に残していて、肝心の風景を撮りそびれていたのでした。歩くことに夢中だったのですね。

    それでも、このあたりはアップダウンの続く道。坂を登るたび、ふいに視界がひらけて町並みが見渡せる瞬間があって、息を整えながらの眺めに、ずいぶん癒されました。

    藤沢宿へ ── 写真を撮ったら、はい次!

    道はいよいよ藤沢宿へと近づいていきます。旧東海道沿いには諏訪神社の鳥居が立っていて、せっかくの神社……なのですが、このときの私たちときたら、すっかりゴールを目指すモードに突入。お参りするでもなく、「写真を撮ったら、はい次!」と、足を止めるのもそこそこに先を急ぎます。神様、ごめんなさい。

    その先にも、古い松の木とともに石碑や案内板がぽつりぽつり。藤沢宿はもう目と鼻の先です。さすがに脚には疲れがたまっていましたが、不思議とテンションは高いまま。ゴールが近いと分かると、人は元気が出るものですね。

    ゴール、そして夜

    そして、ついに――JR藤沢駅に到着!

    「ついたよー! 歩いたよー、私たち!」。思わずそんな声がもれる、素直な達成感。日本橋からの続きを、今日もまた一歩ぶん、自分の足で延ばすことができました。脚はくたくたですが、心はすっかり満ち足りています。

    夜は宿泊先で食事を済ませた……はずなのですが、正直なところ、何を食べたかはもう覚えていません(いかんせん10年近く前だしw)。当時の写真に残っているのは、夜の街で見かけた、あの有名なラーメン二郎の行列。歩き疲れた体で、なぜかその列だけはしっかりカメラにおさめていたのでした。(個人的には並んででもラーメン食べたかった・・・。)

    おわりに

    保土ヶ谷宿から、権太坂を越え、武蔵と相模の国境をまたぎ、戸塚宿を抜けて、藤沢宿へ。アップダウンに脚を使いながらも、富士山や思いがけない眺めに励まされた一日でした。

    次は藤沢宿から、大磯を目指して歩きます。

  • 東海道を歩き通そう、と決めて迎えた最初の一日。スタート地点はもちろん、五街道の起点・日本橋です。

    日本橋 ── すべての道の始まり

    曇り空の下、午前10時前。相方と二人、日本橋のたもとに立ちました。道路の真ん中に埋め込まれた「日本国道路元標」、そしてかたわらの里程標には、横浜まで二九粁、京都まで五〇三粁、鹿児島まで一四六九粁……と、全国の都市までの距離が刻まれています。ここが本当に、すべての道の始まりなのだと実感する瞬間です。

    頭の上を首都高速が覆い、橋はすっかりその影に入ってしまっていますが、それでも欄干の風格は健在。たもとには魚河岸発祥の地の碑も残っていて、かつてここが江戸のにぎわいの中心だったことを伝えています。

    道標を前にしたときは、これから始まる長い道のりへのわくわくと、「頑張る!」という気合いと。その両方を胸に、最初の一歩を踏み出しました。

    銀座 ── 江戸から近代へ

    京橋を過ぎ、銀座へ。この日はちょうど銀座SIXがオープンして間もない日で、真新しい商業施設の前を通りかかると手際の悪い対応に客が詰め寄っている場面に出くわしました。歴史を歩く旅の途中で、いかにも”今日の東京”らしい一コマに立ち会ったのも、なんだかおかしくて記憶に残っています。

    銀座にはもうひとつ、足を止めたい場所が。煉瓦銀座之碑とガス灯です。明治のはじめ、大火をきっかけにこの一帯は日本初の煉瓦街として生まれ変わりました。そのことを記念する碑で、隣にはやわらかな炎をともすガス灯が立っています。少し離れた歩道には「銀座の柳二世」の標柱も。かつて銀座を彩った柳並木の、その二代目です。

    ——とはいえ、正直に打ち明けると、この日は見るもの行くところがいちいち珍しくて、ひとつひとつをじっくり味わう余裕はありませんでした。あとから振り返れば「あそこ、もっと見ておけばよかった」と思うのですが、初日の高揚というのはそういうものなのかもしれません。とにかく前へ、次へ、と歩いていきました。

    浜松町〜田町 ── これぞ、東京!

    新橋を越え、浜松町から田町へ。運河には屋形船がのんびりと浮かび、ビルの谷間にふと視線を上げると——東京タワー。私にとって東京タワーは「これぞ、東京!」の象徴で、いまだに見えるとついカメラを向けてしまう建物のひとつです。この日も、歩道橋途中に赤い塔が現れた瞬間、しっかり一枚おさめていました。

    田町では、ちょっと立ち止まりたい場所があります。「江戸開城 西郷南洲・勝海舟 会見之地」の碑。幕末、官軍が江戸に迫るなか、勝海舟と西郷隆盛がここにあった薩摩藩邸で会談し、江戸の無血開城を決めた——その歴史の舞台です。百万の市民を戦火から守った会談の地が、いまはビルの植え込みの一角に静かに残っています。

    高輪・泉岳寺 ── 江戸の関門と、忠臣蔵

    田町を過ぎ、高輪へ。ここで目を引くのが、高輪大木戸跡です。江戸時代、東海道を行き来する人や物を管理した「江戸の南の関門」で、いまも道沿いに堂々とした石垣が残っています。おもしろいのは、その石垣のすぐ上に大きなYAMAHAの看板がそびえていること。江戸の遺構と現代の風景が一枚におさまる、なんとも東京らしい眺めです。木戸を抜ければ、いよいよ旅人は江戸の外。私たちも、関所を通る気分で先へ進みます。

    さて、泉岳寺の近くまで来たら、ここはやはり外せません。「通るなら寄っていこう」と相方にリクエストして、参道へ。

    泉岳寺といえば、忠臣蔵。赤穂浪士・四十七士が眠るお寺です。祝日だったこともあってか、混み合うほどではないものの、見物客は途切れることなく訪れていました。山門をくぐると、討ち入りを率いた大石内蔵助良雄の銅像が迎えてくれます。一巻の連判状を手にした姿は、いかにも頼もしい。奥には浅野長矩公の墓、そして「血染めの梅・血染めの石」——主君が切腹した際、その血がかかったと伝わる梅と石も残されています。

    実は、私の母方の先祖は播州の出と聞いています。赤穂義士とのつながりがあるわけではないのですが、同じ播州というだけで、なんだか勝手に親近感がわいてしまいました。

    品川駅前〜昼食 ──

    高輪を下って、品川駅前へ。京急線の赤い電車が間近を走り抜け、Wing高輪の建つ交差点は車と人でにぎやか。歴史の道を歩いてきた身には、急に「現代」に引き戻されるような喧騒です。

    この辺りは電車が間近で見られることもあって大きい鉄ちゃんから小さい鉄ちゃん迄電車を眺めたり写真に収めてる人が見られました。

    ちょうどお腹も空いてきたころ、道沿いに「ローストビーフ」の看板が目に入りました。先はまだ長い。ここはひとつ力をつけておこうと、相方と二人で迷わず入店。たっぷりのローストビーフ丼は食べごたえも十分で、おいしくいただきました。旅の途中のこういう一食は、何より大切な燃料です。

    品川宿 ── 最初の宿場、その熱量

    腹ごしらえを終え、いよいよ品川宿へ。「品川宿」と染め抜かれた赤い幟が、商店街の通りにずらりとはためいています。これがなかなか気合いが入っていて、東海道の最初の宿場としての誇りが伝わってくる。北品川本通りには品川宿本陣跡の石柱も立ち、かつて大名や旅人が休んだ宿場の記憶を今に伝えています。

    品川宿を抜けると、利田神社という小さなお社があります。その境内で出会ったのが「鯨塚」。寛政十年、品川の沖に迷い込んだ大きな鯨を供養した塚で、私もこのとき初めてその存在を知りました。

    考えてみれば、品川はもともと海に面した漁師町。海苔の養殖漁でにぎわった土地です。けれど高いビルに囲まれているので、ここが海の近くかなんて分からなくなってしまう。鯨塚は、その忘れていた記憶をふと呼び戻してくれました。

    ——あとから旅を振り返って思うのは、ここ品川宿の”熱量”のことです。東海道を歩き通すと、街道に対する地域の向き合い方が、温度差があることに気づきます。歴史を誇りに、幟を立て、案内板を整え、熱心に発信している地域もあれば、かつての街道がただの生活道路として、地元の人達だけが知る道として淡々と使われている地域もある。その落差は、思いのほか大きかったです。品川宿の堂々とした姿は、これから何百キロも続くその”温度差”の、いちばん最初のサンプルだったのだなと、今になって思います。

    涙橋から鈴ヶ森へ ──

    街道をさらに南へ。浜川橋——別名「涙橋」を渡ります。江戸時代、この先の鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、親族がひそかに見送った場所。橋の上で涙ながらに別れたことから、その名がついたといいます。

    そして、この日の終着点・鈴ヶ森刑場跡。火炙台や題目供養塔が、住宅やマンションに囲まれた一角に、ひっそりと残されています。八百屋お七をはじめ、数多くの人がここで命を絶たれました。

    不思議なもので、都内、都心になるとぎりぎりの場所まで人の生活であふれているのに、こうした場所には、それ以上の住まいを拒むような空気が漂っています。そしてその空気ゆえにか、まわりの営みがあまり変わらないまま受け継がれていく。人と、人ならざるものとの境目。生と死の境目。そういうものが、ふと垣間見える土地なのだと感じました。

    おわりに

    日本橋という「すべての道の起点」から歩き出し、江戸の関門・高輪大木戸を抜け、最初の宿場・品川宿で旅人らしくなり、最後は旅人を見送る涙橋と刑場跡へ。出発と別れが対になった、東海道の最初の一日でした。

  • 東京・日本橋。頭上を高速道路が走る、ごく普通の交差点です。

    でもここは、江戸時代の東海道の出発点。この場所から京都の三条大橋まで、約490kmの道が今もつながっています。

    その道を、夫婦ふたりで全部歩いてみました。

    きっかけは、アニメでした

    ある日、新選組が出てくるアニメを観ていて、ふと思ったんです。

    「この時代の人たちって、江戸から京都まで本当に歩いて行ったんだよなぁ」と。

    そして次の瞬間、「……私も歩けるんじゃない?」というアホな発想が降ってきました。

    調べてみると、旧東海道を実際にたどって歩ける地図がちゃんと存在することが判明。

    相方に「歩いてみない?」と声をかけたら、まさかの「いいよ」。

    こうして、我が家の東海道てくてく旅が始まりました。

    歩き方は「ちょっとずつ」

    といっても、一気に歩いたわけではありません。

    最初の一歩は、日本橋から大井競馬場まで。日帰りのお試しウォークでした。

    「意外と歩けるね」と調子に乗って、その年のGWには保土ヶ谷から小田原まで。

    そんなふうに、休みの日に少しずつ区切って歩く「分割方式」です。

    途中、コロナで2年間の中断もありました。

    気づけば足かけ6年。そして2026年。いちばんの難所、箱根の峠をついに越えて、東海道をほぼ歩き切りました。

    ……正確に言うと、「ほぼ」です。

    実は一区間だけ、大井競馬場から保土ヶ谷の間を歩いていません。

    この区間には、箱根の峠よりも高くて険しい難所があるのです。

    その名も、「相方の実家の前を通る」。

    相方に全力で拒否されました。

    おそらく今後も、この区間を歩く日は来ません(笑)

    歩いたからこそ出会えた景色
    富士川橋にて

    富士川橋と富士山。

    実はこの川、電気の50ヘルツと60ヘルツの境目でもあります。

    車ならあっという間に通り過ぎてしまう景色。

    でも歩く旅なら、自分のペースで、好きなだけ写真が撮れます。

    欄干の富士山と本物の富士山、贅沢なツーショットです。

    名古屋・宮宿、熱田神宮にて

    名古屋・宮宿では、熱田神宮にお参り。

    境内には「草薙館」という刀剣の展示館があるのですが、時間の都合で中には入れず。

    ガラス越しに映る刀を、ただ眺めるだけでした。

    新選組のアニメから始まった旅なのに、刀はおあずけ。

    いつか旅の無事のお礼参りに来て、今度こそ間近で見たいと思っています。

    大津、琵琶湖のほとりで

    京都の手前、大津での一枚。

    ホテルのご厚意でお部屋を無料アップグレードしてもらえて、高層階からこの景色。

    6年歩いてきたご褒美のような、穏やかな琵琶湖の夕暮れでした。

    そして、ゴール

    京都・三条大橋。東海道の終点です。

    ……正直、感動的なゴール、とはなりませんでした。到着の1時間ほど前から街中にはいったせいか急に人が増えてきました。そして橋に近づくほど、まわりは外国人観光客でいっぱい。

    「すごい人だね……」「ほぼ外国人……」と、相方とふたりで唖然。

    6年かけて歩いてきた終着点なのに、こみ上げる感動より先に、人の多さに圧倒されてしまいました。

    でも、これはこれで。

    自分の足だけで、日本橋からここまで来た。その事実は、静かに胸に残っています。

    このブログでは、東海道のこぼれ話や、日々のお散歩のあれこれを、のんびり綴っていきます。

    よかったら、また歩きに来てください。

  • バスに揺られて駅へ向かう途中、スマホをふと見るとえきねっとからのメールが。

    > ただいま一部の新幹線でダイヤ乱れ(遅れや運転見合せ等)が発生しています

    ……あらら。これから乗るはずの、あさま号。本庄早稲田の母のところへ向かう朝に、のっけから予定が狂います。

    さて、どうしたものか。新幹線は1時間に1本。バスの中で、ひとまず乗り換え検索とにらめっこ。早く家を出たのが功を奏して新幹線にこだわらず在来線でのんびり行っても、どうやら約束の時間には間に合いそう。遅延のおかげかキャンセル手数料もかかりません。

    それなら、と在来線の旅に切り替えることにしました。

    在来線に揺られて

    乗り込んだのは、在来線のグリーン車。せっかくだから、と二階席に腰を下ろします。普通車で長時間はおしりが四角くなってしまいますので、ふかふかの座席にゆったりと。お金はかかりますがおしり大事なので。

    >

    各駅停車は、景色をちゃんと見せてくれます。新幹線なら一瞬で通り過ぎてしまう町が、ひと駅ひと駅、ゆっくり流れていく。急がない時間って、こういうものでしたっけ。

    思わず二度見した、駅の看板

    上尾駅で、ふと窓の外を見て、ぎょっとしました。

    ホームの看板に、泥まみれの男の人たちがびっしり。「平方どろいんきょ祭」と書いてあります。なんでも、泥の中で神輿をもみくちゃにする勇壮なお祭りらしいのですが……インパクトがすごい。降りていったお客さんの中にも、看板を二度見している人がちらほらいて、ちょっとおかしくなりました。

    ちなみに発車サイン音が駅によって違うんです。何のメロディーかは有識者におまかせしますw

    >

    新幹線は、とりあえず動いていました

    熊谷のあたりで、高架の上を新幹線が走っていくのが見えました。私の乗るはずだった路線以外は通常運転でしたので。でもまあ、こうしてのんびり眺める側になったのも一興、ということで。

    >

    車窓は、一面の畑

    都心から大宮を通りすぎ本庄の駅が近づくにつれ高層ビルから戸建てへと景色を変え、やがて田畑が増えてきます。麦やとうもろこし、野菜が見えてきました。このあたりは二毛作が盛んな土地で、春から初夏にかけて麦の収穫が終わると稲作が始まります。教科書では知っていた言葉がこの地域ではしっかりと人々の生活の源となっていますね。

    >

    本庄駅に到着

    電車が着くと、ホームの外には施設の最寄りへ向かうバスが、ちょうど待っていてくれました。乗り継ぎがぴたりとはまると、それだけで嬉しいです。

    >

    バス停から、てくてく

    バスを降りて、施設まではすこし歩きます。ただ、この道がなかなかの「車優先」。場所によっては歩道らしい歩道はなく、白線の外側のわずかな隙間を選んで歩きます。地方あるあるですね。

    >

    おわりに

    新幹線が遅れて、思いがけず始まった在来線の旅。

    予定は狂ったけれど、グリーン車でのんびりしたり、ぎょっとするお祭りの看板に出会ったり、二毛作の畑を眺めたり。急がなかったからこそ見えたものが、いくつもありました。

    たまには、こんな寄り道も悪くないですね。